北伐決行/壱


「今はまだ、北へ兵を向けるべきではないと思います。」

荀ケのその発言に頷く者は多かった。

「私も文若の意見に賛成でございますぞ。殿、袁尚などは単なる逃亡者に過ぎないのです。烏丸の蛮族どもは、貪欲であり、自分らに利のあることにしか動こうとはしませぬ。袁尚らのために兵を動かすなど、有り得ないことに御座いましょう。それよりも、荊州の劉表の動きを懸念していただきたいのです。なんでも劉表のやつは、劉備を新野に駐屯させているそうじゃありませんか。我らが北にばかり気を取られている隙に、劉備が北上したらなんとなされますか。まずは後々の憂いとなる種、すなわち南へ兵を向け賊を討伐し、北へ向かうはその後かと思いますぞ。」
「程c殿の申される通りです!!袁尚などは、戦の仕方も知らぬ青二才。やつが烏丸で軍備を整え、たとえ南下したとしても、なんら恐れることはありません!私が最も恐ろしく感じているのは、程c殿のお話にもありました、劉備の存在です!やつが荊州の精鋭でもって北上したら、我らは進退窮まりますぞ!殿、まずは南下して劉備を打つべきです!!」
荀ケも程cも、その他大勢の文官が、曹操の提案した北伐に反対を唱えた。
「ふむう、みなが反対か・・・。しかしなぁ・・・。」
腕を組み悩む曹操。
曹操がどういう結論を出すか、その場にいた文官たちの視線は曹操に集中していた。
場は沈黙する。
曹操の答えは、決行か、延期か・・・。

そこへひとりの人物が大きな声で言葉を発した。
曹操と程cらのやり取りを黙って見ていた郭嘉である。

「殿、腰抜けの文官どもの意見なんぞ、なんの役にも立ちませんぞ。」

曹操に集中していた視線が、一気に郭嘉へ向けられる。もちろん、鋭く痛い視線である。
郭嘉は鼻で笑っている。その目はあきらかに程cらを茶化していた。

「ききき、きさま!もう一度言ってみろ!我らが腰抜けだと?!我らの意見が役に立たないだって?!おまえ、何様のつもりだっ!!」
怒りを顕わにする程c。そして荀ケも応戦する。
「そうだ、郭嘉、失礼だぞ!君はいつもそうだな、我々を馬鹿にした態度を平気で取る。たしかに君は優れているさ、だが、そのような暴言を吐くとは、許せんぞ!ならば、君の考えというものを聞かせてみろよ!!」
普段はわりと穏やかな荀ケも、郭嘉の暴言には腹を立てていた。

「あん?俺の意見だと?いいぜ、聞かせてやろう。北伐は今決行するに限る!だぜ。それ以外はなにもない!」」
壁に寄りかかり腕を組んでいる。その顔には相変わらず程cらを馬鹿にした笑いを浮かべていた。

「なぜ今北伐を決行する必要があるのか、それを聞かせろ!いいか、我ら漢民族が辺境地帯である烏丸へ足を踏み入れることがどんなに大変なことかわかっているのか!下手したらやつらの討伐だけで二、三年という年月を費やすことになるんだぞ。その隙に劉備が北上したらどうするんだ!!いや、劉備だけじゃない、賊は外には山のようにいるのだ、そのことをもっと真剣に考えろ!!よいか、袁紹の施した恩恵があるゆえに烏丸は袁尚を受け入れた。だがそれだけだ。蛮族は袁尚のためになど動かぬぞ!動いたところで、やつらには利がないからだ!目の前に脅威なる敵がいるというのに、なぜ、あえてそれを見逃し弱きに兵を向ける必要があるのだ。おまえの考えなど、浅はかなものぞ!」

程cが述べた反対論に一同が深く頷く。
拍手をする者すらいたくらいだ。

しかし郭嘉は動じない。それどころか高笑いをして程cの前に歩み寄ったのだ。

「おまえ、ほんとに馬鹿だな。いいか、劉表なんてやつは優柔不断なだけの能無し野郎だ。思い出せよ、我らが官渡で激戦してる間、劉表の馬鹿はなにをしてた?ただぼけっと様子を見てただけだ。兵を纏めて北上し、我らの背後を突く機会なんていくらでもあったのにな!」
「劉表にその気がなくとも、劉備が北上を進言するであろう。万が一劉表がそれが容れたらどうするんだ!おまえ言ってただろう、劉備はいつまでも人の下にいるような人間じゃない、と。ならば、劉備のやつは隙を見て、必ず北へ兵を向けるぞ!劉表のために動くのではない!自分のためにな!そのへんを、おまえはわかってるのか!!」
程cはなおも反発した。

「劉表が劉備を用いて北上?有り得ないな。あの男が劉備を全面的に信用してると思うか?そばに置くには危険すぎる、だが、だからと言って、他の誰かのところへ行かれて自分に刃を向けられたらたまんねぇ、ってところだろう。それゆえ、荊州の最前線に置いるんだろ?近すぎず、遠すぎず・・・、微妙にな。劉備が進言したところで、劉表がそれを容れるなんてことはないさ。たしかに利用価値はあるだろうが、用い方がわからない。いや、用いたとして、万が一背かれればひとたまりもない。ならば、今の状態を保っている方がずっといい。これが劉表の本音だ。」
程cは、郭嘉のこの言葉は誠にその通りだ、と感じていた。そのせいか、それ以上は反論を述べようとしなかった。

「なるほど。言われてみればたしかに・・・。しかし、劉備のことはいいにしても、別に烏丸の討伐なんて、今決行しなくてもいいんじゃないのか?」
荀ケの怒りもなんとか静まり、郭嘉とまともに意見を交わそうという姿勢を見せていた。
「さっきおまえが言ってたな、袁尚なんて恐れるに足らんって。それはもちろんその通りだ。だが、烏丸の賊に対してはそうはいかないぞ。やつらはこれまでにも、隙あらば漢の地へ侵攻しようとしてきたんだ。我らが南の劉備にばかり気を取られている隙に、烏丸の賊が南下したら、どうする?俺は、劉備に対しての警戒心なんて持ってない。それはさっき言った通りだ。劉備は絶対に北上しないからな。ならばそんなのはほっときゃいい。それよりも、俺が今取り除くべき憂いと思っているのは、烏丸!やつらに曹軍の威力を見せ付けて、その力で抑えつける必要があるだろう。まずは北を固める。おまえらの考えてる南下はそれからだな。」

程cも荀ケも、郭嘉の言葉にやっと納得して、ふたりして深く頷いていた。


「奉孝の言う通りだな。」
彼らのやり取りを見ていた曹操が、そこでやっと口を開いた。
「口の悪さは相変わらず、だが、俺が言おうとしてたことをおまえは全て悟ってたようだな。」
「と、言うことは・・・、殿の結論は最初から出ていたのですな・・・。」
程cの問いに曹操は笑って答えた。
「ははは、その通りだ。無理に押し通そうとも思ったがな、ちょっとおまえたちの考えというものを聞いてみたかった。程cに文若、おまえたちの意見は、まぁ、まともと言えばまともなんだが、劉備がどうのと言う前に、劉表の性格をもっと熟知する必要があるな。あの男には劉備を用いることはできんだろう。劉備に対しての心配など、なんらする必要はないぞ。それより、郭嘉の言うように、烏丸の存在こそが我らの今後を左右する。俺は袁尚のことなど念頭にはないぞ。北伐の目的は烏丸を制圧することにある。ついでに袁家も根絶やしにする、というところだな。それと、程cが言ってたな。あんな辺境地帯に足を踏み入れるのは危険だ、と。だがな、それを承知であえて決行する必要があるのだ。北の憂いを残したまま南下したとして、万が一蛮族が漢の地へ侵攻して来たら、それこそ我らは進退窮まる。よいか、北伐は決行するぞ。烏丸の蛮族は、その性質上、武でもって制圧する必要があるからな。今回の北伐には五万の兵を動員する。従軍するのは・・・、郭嘉、張遼、許チョ、以上だ。」
「殿・・・、あの・・・、我らは・・・。」
「程cも文若も留守番だ。おまえたちに留守を任せておけば、俺も安心してことを成す事ができるからな!頼んだぞ!」

留守を任されたことに対する嬉しさもあり、しかし従軍する軍師が郭嘉のみ、ということにも不安があり、二人はなんともいえぬ表情を浮かべていた・・・。

「安心しろ。俺が指揮を執るんだし、文遠もいるんだ。郭嘉には裏で策でも練ってもらうさ。この男が表に出ると、軍が乱れるから、な。」
曹操は笑って郭嘉を見た。
「ごもっともです。私は少々品行が悪いところがございますからな。人の気持ちを逆撫でしてしまうことがございます。おとなしく陰で策でも練っておりましょうぞ。」
「な、それなら安心だろ?」
曹操にそう言われ、程cも荀ケも顔を見合わせた。
そして荀ケは曹操に顔を向けてひとこと放った。

「殿、郭嘉という男は減らず口を叩く性悪でございますから、軍の統率を乱すことなきよう、しっかりと監視なさってくださいませっ!」

「あははは、そうだな、郭嘉はよく人といさかいを起こすからな。よし、なにか問題を起こしたら、烏丸に置いて来よう。」
「おおっ、それは大賛成でございます!郭嘉、いいんだぞ、問題を起こしても!!」
本気で喜んでいると思える程cに、郭嘉が屈託のない笑い顔を見せた。
「ばーか。あんな田舎に置いていかれてたまるか!って!!」

こうして二〇七年、曹操率いる五万の兵で北伐が決行されることとなった。




【壱】・【弐へ】・【参へ

=モドル=