北伐決行/参 「殿ぉー!!!」 その声は聞き覚えのある声ではあったが、張遼にはすぐには事態が掴めなかった。 「殿はいずこでござるかぁー?」 見れば、そこには数千の兵を引き連れた許チョがいた。 「俺はここだ!!」 張遼は許チョにそう叫ぶ。 「ああ、殿!!ご無事でしたかぁ!!」 許チョは馬を走らせ張遼に近づく。 「殿・・・だと?あの男が曹操なのかっ!!くそっ、曹操め、自ら奇襲とはいい度胸をしているっ!皆の者、曹操の首を狙え!!あの首を取った者には、莫大な恩賞を与えるぞぉ!!」 トウ頓は張遼を指差して命を下した。 「殿、逃げましょう!!西に五十里、ですぞぉ。」 許チョは小声で張遼に告げた。 「ああ、よく来てくれた。助かったぞ。よし、全軍、俺について来い!!」 張遼の残兵と許チョの連れて来た兵は、一斉に張遼の後を追った。 「にっ、逃がすな!!追え!追うのだぁ!曹操を生きて帰すな!!!」 トウ頓の率いる部隊も張遼を追い始めた。 「許チョ、どうしてここに?」 馬を走らせながら張遼がたずねた。 「ん?暇だったから、曹操様にお願いしたんだ。おいらも行かせて欲しい、って。そしたら偶然ね、郭嘉からの命を授かった兵が来た。許チョ殿は三千の兵を率いて至急張遼のところに行くように・・・、って。」 「そうか、郭嘉の命か・・・。良かったよ、危ないところだったんだ。」 許チョはにこにこと笑っていた。 「あの山かな?郭嘉の伏兵がいるのは・・・。どうかな、敵は着いて来てるのかな?」 許チョの言う“あの山”こそが、西に五十里、の山であった。 山上には曹軍の旗を振る兵士がいた。 「許チョ、どうやらこの山でいいみたいだ。よし、一気に駆け抜けろ。」 張遼の命に従い兵士らは全速で山間を駆け抜けた。 「待てっ、曹操め!!皆の者、急いで追え!!曹操を逃がすな!!」 トウ頓の大きな叫び声があたりにこだまする。 郭嘉は張遼らが山間を抜けたのを見て取ると、弓兵に合図を出した。 「放て!!全ての矢をやつらに放て!!」 郭嘉は命を出して口元だけで笑い、そして、弓を構えた。 郭嘉には武芸など備わってはいない。 そういうことを必要としなかったせいか、彼は武芸の腕を磨いたことなど一度もないのだ。 しかし今、彼は弓を構えて、それが来るのを待ちわびていたのだ。 伏兵の弓矢を受け、蛮族は次々と落馬して地に倒れこむ。 なにが起きているのか理解できていない蛮族も多く、馬を止めてあたふたしている。 そこを郭嘉の兵に射抜かれる。蛮族の死体は次々と積み上げられていった。 そしてトウ頓が郭嘉の真下に来た。 死体が散乱するせいか馬を進めることができず、トウ頓はそこで馬を止めた。 そして山上にいる郭嘉を見上げた。 「なんだ、鎧も身に着けていないとは・・・、貴様は軍議において策を練るだけの、軍師というやつかぁ?ふん、小童めが、弓を構えたところで、この俺を射抜けると思ってるのか?そんな細い腕で・・・。」 そう叫ぶトウ頓の言葉が終わらないうちに、郭嘉は弓矢を放った。 そしてそれはトウ頓額に突き刺さった。 郭嘉は弓を放り投げトウ頓を睨みつけた。 「軍師だと思って、なめやがった罰だ。」 そうつぶやいて笑いを浮かべた。 トウ頓は頭から血を噴き出し倒れる。 「この俺が・・・、死・・・、ぬのか・・・。」 そのひとことが、トウ頓の最後であった。 「馬鹿野郎!!!!」 郭嘉が張遼に怒鳴りつけた。 「貴様、一軍を率いる将でありながらなにをしてた!俺が機転をきかせなければ、おまえなんか死んでたぞ!」 張遼は郭嘉の前で正座していた。 「顔を上げろっ!」 郭嘉にきつく言われて、張遼は顔を上げた。 「ふん、まぁ、その姿を見ればわかるけどな。おまえ、ひとりで奮闘したんだろ?全身、返り血のせいで、真っ赤だぜ。俺にはそういうことはできないからな、さすがだ・・・、とは思うが・・・、遅すぎるんだよっ!俺たちをいつまで待たせるんだ!山間に潜んでから随分と待ったぞ。いつになったら来るんだ、って、心配になって許チョを行かせたんだからな!」 そう言って、郭嘉は張遼の腕を掴んで立ち上がらせた。 「謝ったりする必要はないけどな。おまえはおまえでずいぶんと頑張ったみたいだからな。」 張遼の肩を軽く叩いて、郭嘉がそう言った。 「厳しいことを言うなぁ、郭嘉。」 そこへ曹操が現われた。 「それがトウ頓の首か・・・。おまえみたいな武芸の身についていないやつが、よく討ち取れたなぁ。」 曹操はトウ頓の首の前でしゃがんだ。 「酒の力によるところが大きいのですが・・・。」 郭嘉は頭を掻いてそう言った。 「なに?酒?」 驚く曹操の横で張遼が笑う。 「やっぱり酒が入ってたのか・・・。おまえが顔を近づけて話しかけてきたとき、酒の臭いがしてきたからさ、これは飲んでるな、って思った。」 「ああ、前祝の酒だよ。必ず勝利するってわかってたからな。それに、酒を飲むと、冴えるんだよな、俺。」 曹操はトウ頓の首を持ち上げそれを眺めていたが、郭嘉の言葉を聞いて吹き出した。 「ふふふ、相変わらず面白い男だなぁ、おまえは。」 郭嘉は礼をして笑った。 「有り難きお言葉に御座います。」 「今回の北伐、俺の出る幕はなかったなぁ。こんなことなら、俺は来なければ良かったなぁ。あんな大変な思いをして来たというのに、陣でのんきにおまえたちの帰りを待つだけだった。しかし、よくやってくれたな、奉孝、文遠。それに・・・、許チョも、な。それにしても、文遠が“殿”とは、面白い。郭嘉らしくて、面白い策だったぞ。」 「張遼は、馬術に秀でておりますから・・・。万が一蛮族に追撃されても、彼なら逃げ切れると思いました。そこで、彼には“殿”になってもらったわけです。殿、我らは過酷な行軍を続けて、やっとの思いで此処に到着しました。 本来なら少しばかり休息を取る必要もございましょう。しかし、兵は神速を尊ぶ、と申します。それゆえ、敵の備えの固まらぬうちに急襲いたしました。しかし、程cや荀ケがこの度の私の奇策を聞いたら、失神しそうですが、ね。」 曹操は郭嘉の言葉にまたしても吹き出した。 「はははは、たしかに、な。あの二人がこのことを知ったら、ぶっ倒れるだろうな。あいつらじゃ、絶対にこんな無茶はしないだろうからなぁ、郭嘉の頭はおかしいのか、とか言いそうだな。だが、俺は郭嘉のやり方は好きだぞ。俺のやり方に似ている。だろ? よし!北も固まったことだし、次は程cと文若の希望通り、南下の準備でもするか!郭嘉にはまた面白い奇策を見せてもらわないとな、頼んだぞ!」 夜が明け始めた。 袁尚らは、曹操がトウ頓を討ち取ったことを耳にすると、さらに北へ馬を走らせ逃亡したという。 張遼が鎧を脱ぎ身体についた血を荒い流していると、そこに郭嘉が現われた。 「握手でもしとくか?俺がいて、おまえがいて・・・、それでこそ収めることのできた勝利、だからな。」 郭嘉は右手を差し出した。 「おまえがそう言うなら・・・、しておくか。」 張遼の右手が郭嘉の右手を握った。 「おまえ、最高にかっこいい軍師だな。」 張遼は郭嘉の手を強く握ってそう言った。 郭嘉も負けずに張遼の手を強く握る。 「そういうおまえの方こそ、最高にかっこいい武将だな。」 さらに握る手に力を込めて張遼が笑う。 「俺のことをあそこまでコキ使って、あそこまで叱咤するのは、おまえくらいだな。」 張遼のこの言葉に郭嘉が笑う。 「だろ?」 二人のやり取りを遠くから眺めていた曹操の顔にも、笑みが浮かんでいた。 終 |