北伐決行/弐



その行軍は難を極めていた。

大洪水に見舞われ道が通行不能となっている箇所があった。また、道が断絶して通じていない所もあったのだ。彼らは山を掘り谷を埋めて道を作り、なんとか先へ進んで行った。しかし、それだけではなかった。水不足に悩み、兵糧の欠乏にも大いに悩まされることもあり、馬を殺して食したり、三十余丈も地を掘り水を得たりもした。その行軍はこれまでにない大変な苦労を強いられたものだった。

進軍開始は春先のことであった。そして、秋八月にやっと白狼山に到着した。

「見てみろ、敵軍は勢いは盛んなようだが、陣が整っていないぞ。」
曹操は丘の上から敵陣を見下ろした。
「殿、あそこに見えるのは遼西の単宇・トウ頓ではございませぬか?」
張遼が指差した先には、他の誰よりも威圧感のある鬼のような顔つきの男がいた。
「かもな・・・。あれが袁紹から厚遇されてた男か・・・。この辺りじゃ、もっとも強力だと聞いてるが・・・。」
「殿、あんな蛮族、なんら恐れることはありませんぞ。遼西単宇の楼班、右北平の単宇・能臣抵之、それから・・・、遼東単宇の速僕丸・・・、どれもこれも、頭の悪そうな顔をしてますなぁ。このあたりの蛮族どもには、兵法などというものは備わってはおりませんでしょうから、ここは奇策を用いて虚を突くのがよろしいかと思います。あの陣形をご覧になって、やつらになにか備えがあるように見えますか?」
郭嘉に言われてもう一度敵陣を見下ろす曹操。
彼は顎鬚を撫でながら答えた。
「見えんな・・・。」

「そうでございましょう、ならば、ここは殿が得意とする奇策で。」
郭嘉は曹操を見た。それに合わせて曹操も郭嘉の方へ顔を向ける。
「いや・・・。郭嘉、おまえが裏で、策を練れ。」
「私が・・・、ですか?ならば・・・、張遼をお借りしますぞ。」
郭嘉が張遼を見ると、曹操は笑って言った。
「もう策が立ってるのかぁ。まぁ、おまえのことだ、そんなことだろうとは思ったがな。文遠、この男は人使いが荒いからな、心しておけよ?」
「え?!そうなのでございますか・・・。奉孝殿、なるべくなら、お手柔らかに頼みますぞ・・・。」
「あはは、安心しろ。たっぷりコキ使ってやるさ。あはは。」
悪い冗談を言うときにしか笑わない郭嘉ではあったが、このときもまた、満面の笑みで張遼を見ていた。





八月とはいえ、北方地帯の夜更けは肌寒さを感じさせた。

「なに?!今から敵陣を襲撃しろ、だって?」

郭嘉は張遼のもとを訪れ、突然進撃の命を下した。
「おお、今すぐに、だ。三千の兵を率いて夜襲だ。」
曹操らの陣は、敵陣から三十里離れた地点に構えられていた。
「敵陣に突入して暴れまわってきて欲しい。ああ、君には、“殿”になってもらうぞ。」
「俺が殿??言ってる意味がよくわからんが・・・。」
郭嘉は張遼に顔を近づけた。
そして小声で話しかける。
「おまえの兵に叫ばせろ。殿!とな。蛮族どもは殿の顔を知らん。おまえが兵から殿呼ばわりされれば、あいつらは間違いなくおまえを追撃するだろう。おまえが殿になりすましてやつらを引きつけるんだ。敵陣から西に五十里も行ったところに、兵を伏せるのに丁度いい山がある。そこまで引っ張って来い。俺は急いで弓兵を一万、伏せて来よう。」
間近に迫る郭嘉の威圧感に、張遼は後ずさりをした。
「わ、わかった・・・。おまえの言う通りにしてみよう・・・。で、本物の殿は?ここに残ってもらうのか?」
「ああ、そうだなー・・・。許チョと一緒にここで酒でも交わして、俺たちの帰りを待っててもらおう。」
そう言うと、郭嘉は表へ出て行った。

「あいつ・・・、酒、入ってないか・・・?」
郭嘉が去った後、張遼はぽつりとつぶやいた。


張遼率いる三千の兵は、あれから一時間後に進撃を開始した。
馬の扱いに長じた者ばかりの編成であった。
「よいか、さっきも言ったが・・・、俺は張遼ではない。と、殿・・・、と呼ぶように・・・な。」
郭嘉が曹操から借りてきた「帥」の旗を掲げて、張遼の隊は敵陣を目指した。



「てっ、敵襲だぁー!!!」
備えが全くなかったわけでもなかったが、それでも蛮族たちの陣はあっという間に総崩れとなった。
張遼の兵が火矢を放ち敵兵たちを混乱させる。
張遼の振り落とした刃の餌食たちも次々と地を朱に染めていた。


「よし、もうそろそろ引き時だろう。」
張遼が頃合を見て兵にそう言ったそのとき、張遼らの前に、昼間丘の上から見たトウ頓が現われた。
トウ頓の姿を見た張遼の兵の顔から血の気が引く。
「わっ、わわわ・・・。」
そうつぶやきその場にしゃがみこむ兵までいた。

「怯むな!」
張遼が一喝する。しかしそれは兵の耳には届いていないようであった。
トウ頓の大きな身体からから溢れ出す威圧感と鋭く光る目。張遼の兵の目には、まるで見たことのない魔物のように映っていた。もちろんトウ頓は魔物などではない。人間である。
だが、この月明かりに照らされるトウ頓の姿は、妖術により人を殺める魔物、もしくは人を食い散らす鬼のように見えた。
トウ頓の口元で光る牙。長い爪先も腰元まで下ろしている髪も、尖った耳も、その全てが漢の地では見た事のないものであった。

「なんだ、あいつ・・・。化け物みたいな姿してるな・・・。我らを脅かすための演出か?」
物珍しそうな顔つきでトウ頓を見る張遼だけは、少しも怯んでいなかった。

しかし、張遼らは完全に機会を失っていた。
トウ頓の出現により兵の士気は急激に低下。郭嘉の待つ山間まで蛮族を引き連れなければならない、というのに、その機会を失ってしまったのである。ここでトウ頓らと一戦交えるのは危険すぎる。だからと言って今更兵を引き連れ西の山間まで走るのも危険であった。馬を自分の足のように扱うトウ頓らは目の前にいるのだ。すぐに追いつかれるに決まっている。


「皆殺しにしてくれるわ・・・。」
トウ頓の低く冷たい声が響いた。
張遼の兵はさらに怯えた。
「我らの地へ侵攻してくる身の程知らずどもよ。逃げれるものなら逃げてみればいい。漢民族の騎馬隊など、我らにとっては歩き始めた赤子を追うのも同然なのだからな・・・。」
ぞっとするくらい不気味な笑みを浮かべるトウ頓。張遼はそんなトウ頓を鋭く睨みつけた。
「ほう、我らと刃を交える気でもあるのか?見てみるがいい、おまえの率いてた兵は皆怯えているぞ。」
トウ頓に言われなくてもそれはわかっていた。さきほどまでは士気が高くこの陣で暴れ回っていた兵士らが、今は誰も彼もが顔を蒼白させて震えているのだ。
「さてと・・・、愚かな漢民族どもに、我らの強さを見せ付けてやるぞ!!」
トウ頓は蛮族に合図を出した。そしてその合図とともに蛮族は張遼らに襲いかかる。
「戦え!!全力で戦うんだ!蛮族どもに、我ら漢民族の力を思い知らせてやれっ!!」
不利な戦況でありながらも、張遼は兵を叱咤して奮闘した。
だが張遼の兵の半数以上があっという間に死傷していた。

「見たか!!我らの強さをっ!!生きては帰さんぞ!皆殺しだ!!」
トウ頓は大声をあげてそう言った。
蛮族の士気は、このトウ頓の言葉によりさらに高まった。

「郭嘉っ。俺はどうしたらいい・・・。このまま混乱に乗じてやつらを西に引っ張って行くか・・・?それとも・・・。」
汗を振り落とし張遼がつぶやく。

そのときトウ頓の顔つきが急に変わった。
張遼は不思議そうな表情を浮かべて、トウ頓の視線の先を見た。
砂塵とともに近づいて来る一隊に、張遼は目を細める。

「敵の増援部隊か?!」
張遼はそれにより、いっそう死を覚悟した。




壱へ】・【弐】・【参へ

=モドル=